タケノコ、筍、竹の子。。。

三月末の寒の戻りをすっかり忘れてしまう、ここ数日の初夏のような日差しですね。昨日の鎌倉も、半袖で十分なぐらいでした。鎌倉駅の改札口にも、何組ものグループが集合してなかなかの混雑ぶりでした。
八幡宮の蓮はまだ芽吹いてはいませんでしたけれど、道々には名残の桜と一緒にツツジハナミズキも花を開き、季節がぎゅっと詰まったような。楽しみにしていた"エディブル・ガーデン"の枝垂れ桜(今月のタイトル写真はこの枝垂れ桜にしました)もなかなかに艶やかで、なんとも幸福な光景でした。


さて、昨日の教室は「筍」と「あいなめ」のあつかいと展開でした。
筍は当初予定には無かったようなのですが、昨今の氾濫情報に接する私たちへの先生の厳し〜い忠告を込めて、急遽登場となったようなのでした。
講義もいつもより早めにはじまり、終わったのは16時近く。みなさんに試食していただいたのは一椀だけでしたが、食材の数や準備に要する手数や段取りはいつも以上。先生もさぞお疲れになったことと思います。
さて、某番組での筍の扱い方に嘆き悲しみ、先生はこういうお話からはじめられました。

料理は、生活そのものですからね。生活の無い人はそれがすぐ出てしまいます。みなさんも、手足で考えなきゃダメですよっ!

セカンド・オピニオンではないですが、新聞やTVに出ていたことだからといって、そのまま鵜呑みには出来ない昨今。どの情報を選び取るかは、自分を試す機会でもあります。
以前はそうやっていたから…というのではダメ!と、念を押される辰巳先生。確かに、貝や昆布の取り扱いに代表されるように、食材も変化しているのですから、常に自分の"感覚"であり"手足"で問いながら進めねばと改めて思います。それらが特に意識せずとも行えるよう身体に覚え込む…というのは決して近い道ではありませんが、教室に通われているみなさんには浸透しているようにも感じます。例えば最近、教室が終わった後にスープの味をチェックしてもらいに来る方が増えたように思うのです。昨日は実に10名近くの方が出汁、ポタージュ、コンソメなどを持参されていました。


筍の扱い。火を入れる前の下処理のこと、茹で方やその時の工夫、そして部位による使い方の差異。順序に違いはあっても、野菜は同様のステップがあるということに、自分も気がついていませんでした。筍が特別なことを要求しているのではなく、その大きさや重さなどが自分をひるませていたのかも…などと今更ながらに思ってしまいました。反省。家で本をあれこれ開き読み返してみると、一番懇切丁寧に(写真入りで)述べられているのは「手しおにかけた私の料理」のようでした。手元に在る方は、ノートを読み返す際にどうぞご参考に。


 

手しおにかけた私の料理―辰巳芳子がつたえる母の味

手しおにかけた私の料理―辰巳芳子がつたえる母の味