「食は生死を分かつ」〜久し振りの鎌倉教室で

みなさん、こんにちは。
もう一ヶ月経ってしまいました。今日も含め、大きな余震がまだ続いています。少しずつ復旧しはじめた地域も、また停電していたり、交通網が影響を受けたりしていないか、気にかかります。
さて一昨日の土曜日、昨年12月以来久し振りに鎌倉教室がありました。生憎天気も雨でしたが、それにしても鎌倉駅周辺に人が少ないのには驚いてしまいました。桜はちょうど見ごろ、もったいない〜(^_^;) 辰巳先生宅の風格ある枝垂れ桜も一面の水仙と共にいい風景でした…でも今年はそんな桜を見ても、ちょっと距離のようなものを感じてしまいます。そのことは無理に隠さず、しっかり覚えておこうと思います。


 昨日のスープは「小松菜のポタージュ」でした。そして大震災後最初の教室ということもあって、優れた非常食としても活用できる例として「根性鉄火味噌」「鰹でんぶ」が取り上げられ、そして「地獄炊き」が紹介されました。前者はオリジナル(?)レシピが「ことことふっくら豆料理」に出ていますが、人参や椎茸など何種類もの素材を細かく刻んで使っています。昨日はこれを最新式の粉末タイプで置き換えて"合理的"したものが登場。そして後者は、先生のお母様・辰巳浜子さんが戦地のご主人の蕎麦つゆの素として考案された一品で、お湯を注せば吸い物に、水を注せば蕎麦つゆ代わりになるという優れものです。地獄炊きは、炊飯時に活用する方法など身の周りにある普通のものでも、より良くするにはどうしたらよいのかを常に考えられていることは、いつものことながらはっとさせられるものでした。

辰巳芳子のことことふっくら豆料理―母の味・世界の味

辰巳芳子のことことふっくら豆料理―母の味・世界の味


この日はまた、朝からとても慌ただしい一日でした。雑誌の撮影が行われていただけでなく、映画の撮影スタッフも先生や教室の風景を写しに来られていました。そんな中で辰巳先生は、昨年の食生活調査から見えてきた”各人の受け皿が薄くなって、底が抜けかけている"ことを改めて憂いつつ、1時間半以上に渡って話しかけ続けられました。

「食は生死を分かつ」と直感的に感じた。非常事態だけでなく、普段からそうなのだ。食べるということは(ある意味)とても恐ろしいこと。生きやすい、生きにくいを分けてしまう。そして私たちは、三代ぐらい前からの"生きざま"を背負っている。何を選び、どう料理し、食べてゆくか。これは「築き上げる」ことなのよ。

…”築き上げるもの”という言葉が、ずっしりと重いです。


併せて、岩手県遠野市で教会の方々と支援活動に尽力されている、多田自然農場の多田克彦さんの活動が紹介され、前日余震後の停電の中で書かれたという多田さんからのメッセージが伝えられました。少々長くなりますが、ここでもご紹介します。

スープ教室のみなさんへ

3月11日午後2時40分過ぎ、私の農場に大激震が走りました。今まで経験したことのない地鳴りは家、牛舎、工房の建物、蔵、すべてが倒壊すると覚悟をもたらしました。庭の車はバウンドし、恐怖でどうすることもできず、5分間の大地震の後三陸の海に巨大な津波が押し寄せ、全てのものを破壊しました。
3日後、私はエンデルレ神父様(86歳)を伴い、釜石の街に踏み入れました。車では商店街へ入ることができず、ガレキの中2キロ歩いて釜石カトリック教会にたどり着きました。途中、消防車、警察車、宅急便のトラックがひっくり返り、500台以上の車が津波でぶつかり合い、銀行、ホテル、商店街は柱だけ残り、地獄絵図の中に入っていました。特に浜町、松原町という水産業の集積地は漁船も水産加工場も魚市場も全て崩壊。何十トンもの大型タンカーは今も陸に上がったままです。1200億円もかけて10メートルの津波防波堤が完成したのは2009年。営々と積み上げた我々の英知が一瞬で崩れ去り、自然の脅威とどう向き合っていくのか、われわれは問われています。

地震がおさまった時、倒れると予想し、絶望していた私がしっかり立っている。何事もなかったように、冬から春に向かっておだやかな遠野の風景が残っている。「生きながらえた」という感謝の気持ち、これが蘇生への第一歩でした。
釜石カトリック教会のマリア様の像の前で、全てのガレキが押しとどまっている風景は、ある種の奇跡を感じ、ここを根拠地に再生をはかる活動の決心を呼び起こしました。それから10日間、全ての時間を避難した方への支援に投入しました。牛乳、パン、プリン、おにぎり、炊き出し、つけもの、あらゆる自分の物資を出し、職員がいのちをつなぐ食づくりに動きました。釜石には信仰の厚い小野寺さん(76歳)が現場の情報を私に伝え、私が車で動く。そうして個としてスタートした活動が「小さなカリタス(ラテン語で愛)の会」という名称で次々と支援のプロジェクトを立ち上げています。全力疾走でやっています。神はときに私の手を引き、ときに私を背負って歩いてくださる、そういう心境で行動しています。
2週間後にお風呂が必要になる、しかし釜石にはない。友人の経営者に声をかけ、「釜石市民 心も体もあったか号」の運行をはじめました。大型バス1台45人乗り、片道100キロ先にある東和温泉に入り、帰り、私のお店(遠野風の丘)て゛ソフトクリーム、タイ焼きを食べ、ランチに熱いラーメンを食べる。温泉の一室に衣類、下着、衛生用品、くつ、ありとあらゆる生活必需品を並べ、被災された方々が自分のほしい物を好きなだけ持って帰れる オン・デマンド方式による物資調達システムを作りました。人間が与えられるのではなく、自分が選べるという仕組みです。
人間はいつまでも受けとることだけをしていてはいけません。いずれ自分で立って歩かなければならないからです。笑顔と感謝のことばが消え去る時は、危険な状態に入ることを察知しなければいけません。
現在、教会内部の全ての部屋は、自立支援センターとして位置づけ、伊瀬聖子さんをチーフに全国から支援を申し出て駆けつけてくれた30名のボランティアと毎日ガレキ搬出、食事の調理、物品の仕分け、ありとあらゆる活動を全国の支援者の協力で運営するところまできています。ここにきて心配なのは、スタッフの心労です。
4月8日は国際NGO「難民を助ける会」の方々が4トントラックで靴下、下着、衛生用品カーペットを運んでもらいました。今この原稿は4月8日余震が激しくて停電した暗闇の中でかすかな光をたよりに書いています。人間の歴史は試練との戦いです。試練は時に絶望を与えますが、その絶望からかすかな光を見出す、立ち上がる力をつくりだすのは何だろうかと考えています。
それは私達日本人ひとりひとりが毎日の生活の中で、自分自身が常に自己責任で人生を選びとる明確な理由をもつ、この態度を養わなければいけない。できるだけ個々に寄り添う形で支援していきたいと思ってます。
5月一杯まで自立支援センターを中心に活動します。

スープ教室の皆さん
どうか1000年に一度の大地震、大津波の破壊を自分の目で確かめていただきたい。そしてこれからの岩手の構築に向けて立ち上がる人たちに暖かなスープを差し出していただきたい。生きる手がかりとなるメッセージを食を通じて届けていただきたいと思います。

いまもほぼ毎日ブログから発信を続けていらっしゃる多田さん(→こちらです)。精力的に動かれているのはもちろん、新しいやり方を考案されたりしています。会のメンバーでも遠野でスープを作って…と検討しています。交通機関がもう少し復活してくれればグンと行きやすいのですが…。

インターネットの活用が一般的になり、今は被災された方や現地で支援されている方が直接状況を伝えてくれる例がいくつもあります。支援金一つとっても、赤十字と並行して、直接そういう方々をサポートすることも出来ます。それならばと、教室で募金を呼びかけました。辰巳先生はじめ、ご協力いただいた教室のみなさん、ありがとうございました!(本日、郵便局で振り込みを済ませました)
これからも、あれこれ考え、一つでも多くを実行できるようにしていくつもりです。みなさんもご協力よろしくお願いいたします!